2005/06/27
(藤代 裕之@ガ島通信)
「もういいかげんにしろよ」という声が聞こえてきそうですが、もう少し、「リアル・サイバー」、「匿名・実名」に関する議論に、お付き合いいただきたいと思います。
私自身、前回紹介したJapan Media ReviewのDavid記者の回答に、完全に納得したわけではありませんでした。私は、新しいネットワーカーなので、古くからのネット文化を知る立場にありませんでしたし、なによりも『ペンネーム(ハンドルネーム)すらなくなった』という部分に引っかかっていました。そこで、ニュースサイト「Slashdot Japan」の編集者Oliver M. Bolzer氏にメールインタビューを行いました。
まず、これまでの議論を踏まえたOliver氏の意見は下記のようなものでした。
『「匿名」に関する議論は本名を公開しているかどうか、ということに拘りすぎていると思っています。本名でなくとも、ハンドルネームでいいのではないでしょうか。多数が同じ「名無し」を名乗ることにより、小魚の群のように「個」の識別が不可能な2ちゃんねる式の匿名だと、時間軸に沿ってどういう積み重ねで意見や主張が変化していったのかは追えません。継続性がなければ、ある主張の真意を理解したり、建設的な議論をしたりする事は困難です。議論するということは、自分の意見で相手を説得し、自分も納得できる答を得ることに他ならないからです。
実名でなくとも、中長期的に使われるハンドルネームによって継続性は十分に確保されます。著者が一定しているブログも同様です。この点、ブロガーはすでに有象無象な烏合の衆から一歩抜きん出たと言えます。今後、より多くの人がオンとオフを区別しなくなるにつれ、わざわざオフラインの識別子としての本名とオンラインの識別子としてのハンドルを使い分ける人は日本でも減ってくると予想しています』
さらにメールで質問しました。
藤代→Oliver
『私はブログが主体性を持ったメディアととらえています。2ちゃんねるは、管理人の西村博之氏が責任を負っているのですが、ブログはブログを運営している各個人が責任を負っています。これによって、議論の土台、主体性が担保されるようになったと考えています。掲示板であれば、すべての「電車男」が同一なのか微妙ですが、ブログでは同一性が確保されます。Oliverさんは、ブログが日本のネット文化において、これまでと違った風をもたらすとお考えですか?』
Oliver→藤代
『ネットユーザは今も昔も、情報を吸収したら、自らも情報を放出したくなってくる人がほとんどです。これは程度の差はあれ世界のネット文化共通のものだと言えます。掲示板でその他大勢の一人として雑談するのではなく、ブログは自分が主役の場で、「情報発信をする」という強い意志の現れです。ブログが掲示板と明確に違うのは継続性です。一人の個性を持った人間が、瞬間ではなく中長期に発言することで、内容の信憑性やその裏側にある価値観が読み取れるところが面白いと思っています。ブログの流行はネット文化に違った風をもたらすのではなく、より多くの人が情報をインプットするだけから付加価値をつけてアウトプットする様になることの追い風であると私は考えています』
藤代→Oliver
『ハンドルネームについてですが、以前、EPIC2014(メディアの未来を予測したフラッシュムービー。アマゾンとグーグルが合併。そのコンピュータは、あらゆる情報ソースから文章を抜き出して、それらをふたたび組み合わせることで、新しい記事を動的に作り出す。そして、2014年にニューヨークタイムズはオフラインになる、といった内容)を題材にしたある勉強会に参加したときに、「確かさを担保するのに、報道機関が必要で…」という発言がありました。それに対して私は「すでに既存メディアは確かではない。確かなものがほしいという、願望のようなものを担保しているだけで、新しいシステムになれば誰か、例えばブロガーかブロガー集団、もしくは会社のようなものがそれを代行することになるだろう(そのブロガーが実名であれ、ハンドルネームであれ、本当に確かな情報を流しているかどうかすら無関係)」というような意見を述べました。「確かさ」はハンドルネームでも生まれると思うのです。作家の名前やアイドルの芸名も、確かなハンドルネームと同じようなものです。ですから、私は匿名・実名というのではなく、リアルという言葉でこの問題を読み解こうとしたのですが…』
Oliver→藤代
『戸籍名(実名)、あだ名、芸名、ハンドルネーム、ペンネーム…。いずれも個人を特定する識別子です。違うのは、その識別子の有効範囲です。たとえば私の場合、日常生活上使っていて、友人にも知られている名前と戸籍名は違っています。しかし、ちゃんとその名前と自分が関連付けられているので、問題はありません。逆に、戸籍名なら「誰それ?」になってしまいます。所変わって役所関連は、通り名の有効範囲外で戸籍名だけが通用します。ある名前が実名なのか、もしくは自ら名乗るハンドルなのか、それとも誰かにつけられたあだ名なのかどうか、わざわざ区別する必要はあるのでしょうか?
私は、実名=リアルで使うもの、ハンドルネーム=ネットで使うもの、という区別はせず、名前があるのかどうか、「個」として識別できるのかどうか、という視点で匿名・実名論争を見ています。つまり、「その他大勢」なのか、「誰それさん」なのかどうか、主体があるのかどうか、という視点です』
Oliver氏の意見もDavid氏同様に、大変興味深いものでした。皆さんのご意見はいかがですか? 今回のテーマには、トラックバックだけでなく、メールにもさまざまなご意見を頂いていますので、同時にご紹介することにしました。よろしければご覧ください。
では、編集部を通じていただいたコメントの中から、興味深いものを紹介したいと思います。できるだけ原文に配慮しておりますが、一部、省略・編集を行っております。なお、コメントはすべて、アドレスを消して私に送られてきております。すべてに目を通していますので、よろしければ引き続きご意見をお願いいたします。
●私自身もブログを運営しています。当初、プロフィールには、生まれた年しか書いていませんでした。読者には、男性・未婚って思われていたそうです。意外とそれが楽しくて、続けていたのですが、ばれてしまいました。ブロガーは、匿名にすることで、自分とは別の非現実の社会を作り出す人と、ぎりぎり自分を出すか出さないかという人に、分かれています。アメリカのように、ブログが力をもつ時が訪れることを期待していましたが、途中で飽きてしまいました。誰もがブログを書くことは大いに結構なのですが、モラルや信憑性が薄くなっているようで、不安もあります。
●匿名であるから極秘ネタが出てくる、匿名であると責任のある記事がでない。ウオーターゲート事件のことを見れば、アメリカでも匿名性が重要と思えます。
●私は当初からハンドルネームなる物に大きな違和感がありました。正体を明かさない者の言説など信じられるはずもないし、まともに議論する気にもなれなれず、その結果として虚構のお遊びになってしまっているのが現実ではないでしょうか。
●私はリアルから切り離されたところでブログの「虚構」を楽しんでいます。目下のところ、私にとってのブログはエンターテイメントであり、ブロガーとしてメディアそのものになろうという気は全くありません。ブログ上の「虚構」の自分とリアルの自分の間のギャップや重なりの微妙な部分を楽しんでいる訳です。こういった楽しみ方を米国人はしないのでしょうかね? だとすれば文化の違いはそう簡単にはなくならないでしょうし、これはこれで「アリ」だと思うのですが。
●匿名性については両国の文化の違いに根ざしているような気がします。日本は、いまだに、出る杭は打たれる。言われたようなことを言われたとおりにやる、覚えるのが教育の主体です。意見を言って一人前とするアメリカは、ディベートを通じて自己の立場を明確にすることが教育でも行われています。自分のプロフィールを見た人が「潜在的偏見の大体の感覚」を推し量れるほどアメリカは多様性に満ちているのかもしれません。
●結論からいうと、日本ではブログが、政治や社会的な問題に対して影響力を持つようにはならない、と私は考えます。ネット文化というよりも、日本の国民性が大きく影響します。日本は(一応)民主主義ですが、毎度選挙で取りざたされるように投票率は、ほとんどが50%を下回るほど低く、国民の社会参加への意識が低いといえます。欧米のように王様から勝ち取った民主主義ではないのだから、仕方ないとはいえますが。世論調査などで「だれが首相になっても同じ」とかいう回答が多いのも「自分が何かをやってもどうせ何も変わらないのだから、政治や社会には関らない」という意識によるものだと考えます。「長いものにはまかれろ」ということわざがあるように、日本人はわざわざ長いものの行く方向を変えようとしたり、そもそも長いものの形を変えようとしたりはしないのです。影響力を持つのは、有名人のブログや大企業・組織をバックにしたブログで、その内容は個人の生活や新製品の情報なのだと思います。
●アメリカでは、有名人やそれなりのバックグラウンドを持っていないと読まれなくなって来ているという事は…何の事はない、ブログもマスメディアの一部になってしまったという事ではないでしょうか。つまり国民がブログの価値を殺してしまったという事です。日本よりも、肩書きや権威を気にするアメリカらしい動きだと思いますが、日 本では絶対にこうなって欲しくないと思います。本当の意味のブログの価値とは、匿名、非匿名に関わらず、「名もなき」何のバックグラウンドも権威もない人間でも、発した情報がその正当性、有用性面白さなど、純粋に内容の価値だけで読まれ、評価され、影響力を持つ事にあると思います。その意味では新聞の投書に似ていますが、新聞の投書はその新聞の意向で取捨選択されてしまう為、ブログの方がより直接的で可能性があると思います。「名もなき」人々の正論が蟻の一穴になって共感者を増やし、世の中を動かして行くような事になって欲しい。さし当たり、対中関係、憲法改正、郵政民営化などの真面目な題材が、日本のブログが単なるおちゃらけに甘んじるかどうかの踏絵になるでしょう。
%u5B9F%u540D%u304B%u533F%u540D%u304B%u306E%u5883%u754C%u306F%u3001%u30A2%u30A4%u30C7%u30F3%u30C6%u30A3%u30C6%u30A3%u304C%u3042%u308B%u304B%u3069%u3046%u304B - nikkeibp.jp - from %u30AC%u5CF6%u901A%u4FE1%u3000%u30E1%u30C7%u30A3%u30A2%u5D29%u58CA%u306E%u73FE%u5834%u3092%u6B69%u304F